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「その死」 自由人であり続ける




 「さはこの湯」のほぼ真向かいに、浄土宗旧名越派の「惣善寺」がある。通称「下の寺」。その奥まっている高台に光一郎の墓があった。周りは竹林で覆われており、シンと静まり返っている。そうした中で、彫刻家小田襄が制作した黒御影の墓石が異彩を放っていた。
 光一郎の入院は昨年の9月27日。突然だった。呼吸が苦しそうな夫を見かねて紀志子が病院に行かせた。レントゲンを撮ってみると、片肺がまったく機能していない状態で、即入院。猛暑と大作の制作が彼を弱らせていた。若い時に被爆し、肺結核をも患った肉体には、もはや抵抗力がなかった。
 近くに住む鈴木邦夫(63)は旧城跡の坂で、登っては休み、休んでは登る彼の姿を何回か見ている。ちょっとした距離でも車に乗せると、「いやぁ、助かったよ。ありがとう」と礼を言った。長いつき合いだった。一緒にスケッチ施行もした。しかし、余計なことは決して言わなかった。黙々と自分のベースを守り、絵をほめることも、けなすこともしない。邦夫にしてみれば、言葉を発しないことが怖かった。
 光一郎は、11月7日午前6時、燃え尽きるように息を引き取つた。前夜は8時ぐらいまでテレビを見て、朝起きてから水をほしがった。ゆっくりと水を飲んだあと、付き添いの女性が亡くなっていることに気ついた。眠るような大往生だった。
 「あれだけ純粋に生きられれば幸せだと思う。穏やかでいい人だつたから、最後も苦しまないで往生できたんでしょうね」。紀志子が、ちょっとしめっぽく言った。浮世のことにはほとんど関心を示さず「面 倒だなあ」「イヤだなあ」と言って、なるべくかかわろうとしなかった光一郎。しかし、絵と音楽の話になると途端に目が輝いた。権威や金にしばられ、屈服することを徹底して嫌い、あくまで自由人であり続けた。何よりも絵を描き続けることを最優先した真の芸術家であり、画家といえた。
 享年81歳。さずけられた戒名は「彩雅院仁誉美阿光徳清居士」。旧制中時代からのライバルで、敬愛してやまなかった鈴木新夫の展覧会が、市立美術館で開幕する四日前の死だった。
 若松家の墓石は、ゆるやかな曲線が特徴だ。制作者の小田は「曲線は大地にかえる永遠のテーマ」と位 置づけ、生と死が向かい合っているイメージにした。「輪廻の世界を表現したかった」のだという。見事なまでの情熱と集中力で作品を生んできた光一郎は、試行錯誤の未に自然をめざすようになった。その象徴ともいえる墓の下で、永遠の眠りについている。

| 鳥の歌の響き | 22:16 | comments(0) | - |
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