「風化」 廃船からイメージ得る
光一郎が撮った一枚の写真がある。風化した壁のアップで、ペンキがはげ落ち、微妙な模様が浮き出ている。「自然がつくり出した偶然の美」とでも思ったのだろうか。ベタ焼きの印画紙にサインペンのようなもので、構図の枠取りがなされていた。撮影したのは昭和31年1月1日。新しいリアリズムを求めて炭鉱や漁村をスケッチしていたころで、前後のコマには炭鉱風景が写っている。美校を卒業したあと、陸軍軍医学枚の防疫研究所写真班で写真技師のようなことをしていた彼にとって、カメラは身近な存在だったのだろう。スケッチの際、よく持ち歩いていた。しかし、その一枚が「限定された形態」を打ち破る第一歩になるとは、夢にも思わなかった。
光一郎は当時、明らかに苦悩していた。昭和16年(27歳)に「石の村」で新作家賞、19年(30歳)に「五月」で岡田賞を受賞し、具象の世界の頂点が自分なりに見えたような気がしていた。しかし、さらに一歩進んで主題を突き詰め、絵に思想性を持たせようとすればするほど、袋小路へと追い込まれていった。
だからといって、同じようなモチーフを同じ表現で描き続けるのは嫌だった。風景から室内、さらに炭鉱から港へ…。光一郎の模索は続いた。「自分なりの表現とは何なのか。このまま具象を続けていって、果 たして先はあるのか」。常に内的葛藤状態の中で、海岸線を歩きスケッチを続けていた。そんな時、ふと目に留まったのが廃船だった。
光一郎のアンテナは鋭い。自らのインスピレーションをイメージに転換し、キャンバスにぶつけていく。例えば、「石の村」はドイツ映画「青い光」のタイトルに触発され、「大地の歌」はテレビで見たチベットの古代壁画や岩肌などがヒントになった。四倉海岸で見た廃船は、彼にとって一つの啓示といえた。
船体に染み込んだ油、風化され、朽ち果てた表面。その、何ともいえない枯れた形や質感に強くひかれた光一郎は、そのままでも絵になると思った。「風化は自然がつくり出した美だ。それを絵画にオーバーラップさせたい」。カメラを持って朽ち果 ててゆくものを撮り続け、自然が形をつくる原理を学ぶ日々が続いた。
撮影したモノクロ写真を大きく引き伸ばし、自分なりの色を付けてキャンバスに忠実に再現していく。その作業は船体にへばりついているブリッジも丹念に描くほどだった。そうして、記念すべき「風化」シリーズが生まれる。この時、光一郎47歳。のちに「死んだつもりになって新しい自分の可能性を追求しょうと思った。清水の舞台から飛び降りる心境だった」と語っている。苦しんだ末での光明といえた。