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「帰郷」 いわきに根張り生きる




 「精神の道はパリも日本も同じことです」。これは昭和26年冬に2回目の個展を開いた時の荻須高徳(新制作協会貞)が寄せた推薦文の一節。昭和20年9月に紀志子と長女民子(3つ)が待つ常磐湯本町の実家に戻った光一郎は、いわきでの活動を余儀なくされる。
 17年に末弟・嶺三郎が肺結核で逝き、19年にはすぐ下の弟・祐二郎も戦死。さらに22年、父・徳三郎までが亡くなった。わずか6年の間に次々と若松家を不幸が襲い、家には母・シナだけが残きれた。長男であり家族思いの光一郎にとって、母1人を残して東京に出て行くことはできなかったのだろう。絵画仲間をつくり、いわきで根を張って生きることを決意したのだった。
 冒頭の荻須の推薦文は光一郎にとって激励文のように思えた。「パリも日本も同じ」という部分を「東京も地方も同じ」と自分なりに置き換えたに違いない。中央に出て新しい刺激をいち早く感じ、作品レベルを上げて名を売りたい−との思いもあったろう。しかし、地方に腰を据えて画家として生きていく道を選ぶ。のちに「迷いもためらいもなかった」と述べている。
 当時の若松家は通称「表町」にあった。現在「さはこの湯」になっている場所で、光一郎は子供たちを対象に「サイプレス(糸杉)絵画教室」、紀志子は音楽教室「アザミ会」を開く。以後50年にもわたって続けられる、夫妻そろっての文化活動のスタートだった。
 京都で生まれ育ち、青春時代は東京で過ごした紀志子。いくら光一郎が決めたとはいえ、終戦後に見ず知らずのいわきで過ごすのは大変だったに違いない。
 「確かに東京に戻るつもりで音大の教授に就職を探してもらっていた。その時、『これからは地方の時代。文化を根付かせるために捨て石になる人が必要。あなたはそうしなさい』と言われてふっ切れた。教授も偉かったと思う」と当時を振り返る。
 光一郎は書いている。「私の作品は、けんらんたる花園に比べれば秋の野に咲く雑草のような存在であるかもしれません。しかし、私はこの雑草のような抵抗を持って、来年もその翌年も根強く大地に根をはってゆき、自分の信念を貫きたいと思います」この精神こそが、いわきでの画業のベースであり、原点ではなかったのか。そこには強い意志が一本通 っていた。
| 鳥の歌の響き | 21:55 | comments(0) | - |
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