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「作家精神」 厳しい目持ち続ける




 「スケッチブックが出てきたんですよ」。二女の素直(46)がそう言って見せてくれた作品群には光一郎の素顔が見え隠れしていた。決して人に見せようとして描いたわけではない1枚1枚。しかし、そのどれを取っても手を抜いたものは見当たらない。中でも黄色の色画用紙にセピア色のコンテで措いた裸婦デッサンは、実におおらかで何ともいえない画格があった。
 「あの人は、あくまで自分が制作することを本位に考えるタイプ。作家なのね。指導者には向いていなかったと思う」とは紀志子。光一郎は戦後、湯本の自宅で子供対象の「サイプレス絵画教室」を開いたが、決して枠にはめるような指導はしなかった。同じ位 置に立ち、一緒に学んでいく - という基本方針を自分なりに持ち、子供たちの自由な発想を大事にして自由に措かせた。それは、その人のいい面 (本能)をどんどん伸ばしていくことを、最優先するやり方といえた。
 のちに「ユマニテ会」に発展する青年たちへの指導も同じ。週1回、しかも夜にアトリエを開放していたが、月謝はなし。秘められている未知の才能を引き出しながら自分の刺激にもしたい、と思つていたらしく、絵に手を加えることはしなかった。  光一郎の絵を見る目は厳しい。純粋に自分のセンスや価値観をフィルターにして絵だけを評価する。だから、措き始めて何年、だれだれの弟子、といった周辺の事情は、全く関係ない。要は「いい」か「悪い」か。「以前と変わっていない」か「良くなった」か…。決してそのレベルまで下げて見ることはしなかった。いや、できなかった。おまけに、歯に衣を着せることなど大の苦手のうえ無口、ときているから、誤解されるケースもかなりあった。
 「指導者とは、単にテクニックを教えるだけではない。生き方を示すのだ」。光一郎の母枚である東京美術学枚(現在の東京芸術大)には、そうした考え方が息づいていた。彼自身も藤島武二教室で、藤島の人間としての幅の広さ、絵画に取り組む姿勢を肌で学んだのだろう。
 光一郎は27歳の時、磐城中(現磐城高)のX会で絵の指導を受けた恩師の作品を前に、「失礼ですが、これから描くのが絵じゃないですか」と評したという。絵を前にすると、彼はいっさいのしがらみを忘れ、純粋になれた。そして、他人にばかりでなく自分にも「これでもか」というくらい厳しかった。それが七十年近くにもわたる画業の支えだった。
| 鳥の歌の響き | 21:57 | comments(0) | - |
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