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「ライバル」 見事な対照見せた二人




 光一郎の呼び名は「みついちろう」という。サインもしばらくは「mitu」を使っていた。しかし、社会的に「こういちろう」と呼ばれることが多くなるにつれ、「K・Wakamatsu」へと変わっていく。そうした中で、常に「みっちやん」と呼び、若かったころのスタンスを崩さなかったのが、磐城中X会時代からのライバル・鈴木新夫(昭和55年5月10日没)だった。
 戦後も東京に残り、時代に埋もれた風景や人々を具象的手法で掘り下げ続けた新夫。逆に、いわきに住みながら抽象表現へと変貌を遂げた光一郎。ニ人は常にお互いを意識し合い、無言のうちに励まし、励まされるかけがえのない“同士”、といえた。
 二人を対比する際、必ずといっていいほど引用される文章がある。昭和24年に、いわき民報に掲載された柴田善登(二人の磐中時代の恩師で昨年3月没)の「若松光一郎論」だ。柴田は新夫を「冷静な頭脳と厳格な自己批判の目を持ち、理詰めの追求で制作していく型」とし、光一郎を「本能的な作画態度で自然に対して赤裸々にぶつかり、そこで一気に勝負を決めていく型」と許している。実に的確で、本質を突いている内容だと思った。
 のちの光一郎にこんなエピソードが残っている。知人と五百羅漢を見にいった彼は、「光と影の感じが面白いね」と、言ったというのだ。羅漢の表情ではなく、光線の具合に興味を覚えたところに「色感が豊かな作家」と言われる光一郎の真骨頂があった。
 「それぞれ、作家の特性があるように社会性を帯びた主題は私の肌に合わなかったようだ」と本人が述べているように、一時「主題」にこだわった画風は、すぐに「絵画」を探究する道へと戻っていった。逆に新夫は、生活者のにおいに美しさを求め、人間を描き続けていくことになる。
 新夫が自分より一年早く新制作協会貞に推挙された時(昭和30年)、光一郎の胸中はどうだったのだろうか。その3年前に肺結核を患い、長い療養生活を余儀なくされたあとの、ライバルである親友への朗報。複雑な思いが交錯していたに違いない。しかし彼は、それを制作意欲へと変えた。「親友が情熱をプレゼントしてくれた」のだった。

| 鳥の歌の響き | 21:59 | comments(0) | - |
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