「アトリエ」 イメージを形にする場




 光一郎のアトリエに初めて足を踏み入れた日のことは、今でもはっきり覚えている。「どんな場所で制作しているのか、どうしても見たいんです。入れてもらえませんか」とお願いすると、「いいですよ。どうぞ」と、快く2階の部屋へと案内してくれたのだった。
 板張りの20畳間で、南側に広く切った窓。壁には大きなキャンバスが何枚か立てかけられており、彩 色された和紙があちこちに散乱していた。自慢のグッドマン(イギリス製)のスピーカーからはクラシックの旋律が流れ、部屋全体に光が満ちあふれている。その空間はまさに、「若松光一郎の世界」といえた。
 紀志子は光一郎のことを冗談ぽく「2階の先生」とか「2階の仙人」と呼ぶことがあった。アトリエに入り込んだら最後、なかなか出てこない。しかも聴こえるのはクラシック音楽だけ。お互い干渉しないたちだが、長年一緒に生活しているうちに、室内の様子がわかるようになった。
 バッハやブルックナーなどの曲が、うるさ過ぎるようなボリュームで聴こえてくるときは制作がうまくはかどっており、音が弱く祈るような曲になったときには、椅子にもたれて休んでいる…。そして、昨年の春ごろから、うるさ過ぎた音がだんだん聴こえてこなくなったことに、自分がもっと神経質になっていれば―と、今さらながらに悔やむのだった。
 「アトリエは制作するだけの場ではない。表面的にはボーッとしているように見えても、頭の中ではさまざまなイメージが浮かんだり消えたりしているんですよ」。光一郎がそう言うように、作品が具象から抽象に傾くにつれて、その空間は漠然としたイメージを色や形に置き換えるうえで、かけがえのないものになった。それと並行するように、風化を忠実に描くことからスタートした抽象表現は、自らの精神宇宙へと深化し、手法も油絵から和紙を使ったコラージュ(張りつけ)へと変貌していく。
 光一郎は自らについて「描いているうちは夢中になって突っ走れるが、でき上がってしまうと、その作品にそれほど関心がなくなってしまう面 がある」と書いている。確かに、常に新しい表現を求め続けてきた彼にとって、過去の作品に浸る余裕はなかった。一つの様式が完成すれば、すべてをきれいきっぱりと洗い流し、未知の世界へと舟をこぎ出し続けた。だからこそ、その絵には、手あかにまみれていない、潔い輝きのようなものがあった。

| 鳥の歌の響き | 22:04 | comments(0) | - |

「夫婦」 彩りと響きの二人三脚


 

 一枚の自画像がある。「色に温かみがある」といわれる光一郎らしく、全体が暖色系でまとめられている。昭和13年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科の卒業制作として描かれた。エンジ系のVネックセーターに赤いネクタイ、頭には中国の苦力(クーリー)の帽子をかぶっており、モダンボーイぶりをうかがわせている。この時、24歳。紀志子と結婚する前年のことで、その作品には、まぶしいほどの青春の輝きがあった。
 紀志子には、つらいことがあっても軽く笑い飛ばしてしまう、天性の明るさがある。「あなたは頭を使うとより、手先でする仕事の方が向いているのね」。彼女にカラッと言われると、光一郎は苦笑いするしかなかった。ニ人はそうして、60年近くも苦楽を共にしてきたのだった。学生時代、池袋・地蔵堂のアトリエで開かれた芸術家仲間のクリスマスパーティーで知り合った、光一郎と紀志子。そのままグループで銀座に繰り出し、標識を引っこ抜いてみんなで記念撮影をした。卒業制作のみずみずしい自画像は、そんな時期に措かれた。
 「おとなしくて、かわいらしかった。周りでガーガー議論しているのに、いつもニコニコして開いていた」。最初に紀志子が持った光一郎に対する印象は終生変わることはなかった。一見ひ弱そうだが、絵に対しては燃えるような情熱を持ち、キャンバスの前ではさまざまなしがらみを捨てて純粋になれる人―それが光一郎だった。
 彼は決して“売り絵”を描こうとはしなかった。自らの表現を追求し続けることこそが、画家の仕事だと思っていた。それをまっとうすることが、生きるあかしだったのだろう。当然、収入はわずかで、若松家の家計は必然的に、バイタリティーあふれる紀志子が支えるようになった。
 佐藤忠良は書いている。「いつも音楽的な色と音になって、画面からこちらへ追ってくるのは、この夫婦の理解と闘いの波なのだろうと思う」。アトリエの下はピアノのレッスン場。その二つの空間は常に、彩りと響きが交錯していた。戦中、戦後の厳しい時代を二人三脚で走り抜けた光一郎と紀志子。そこには行き違いや苦悩も存在したことだろう。しかし、二人には芸術をベースにした心の豊かさがあった。だからこそ、乗り切ってこれた。
 「あの人は私を自由にしてくれた。好きなことをさせてくれた。感謝してます」。この紀志子の思いは、光一郎も同じではなかったか。彼にとっての妻へのお返しは、いい絵を描き続けることだった。

| 鳥の歌の響き | 22:05 | comments(0) | - |

「父の血」 調和を大事にする感性


   



 画家が鏡を見て自画像を描くとき、必ずといっていいほど、自分の顔の中に父母の面 影を見つけるという。自分と対時し、顔をジッと見つめ、内面 までものぞこうとした瞬間、父や母が出現する。自らの見慣れた顔を、絵画表現の対象として改めて見てみたら、日常生活の中に隠れていた「血」が、こつ然と浮かび上がってくるわけだ。その感慨は体験したものでなければ、わからないだろう。
 光一郎は晩年、父・徳三郎(昭和22年に59歳で没)を意識することが多くなった。湯本の旧家に生まれ、書画骨とうに造けいが深かった父。年を重ね、家族から「ますます似てきたね」と言われるたびに、その影響を感じざるを得なかった。
 好き嫌いがはっきりしていて凝り性 - 光一郎はよく、そう言われた。自分のセンスや体質のようなものを大事にしているためで、それはすべてに通 じた。常に調和を考え、頑固なくらい好みがはっきりしている。しかも、その感覚は深くて鋭かった。
 こんなエピソードがある。絵のサークルが展示会を開くことになった。指導者である彼に見てもらったら、絵ではなく額縁の話しかしない。「いい額だねえ」「これは絵に合わないなぁ」…。調和の目を養うこと、それが指導であり、光一郎一流の美学でもあった。その一言ひとことは「もっと感性を磨きなさい」という、無音のアドバイスだったのだろう。
 「額は白木で細縁。ガラスは入れない。絵画というものは、あくまで絵を主体に見せるもの。微妙な肌合いが見る側に伝わらなければならない」。光一郎は亡くなる少し前にこう言っている。また、「半世紀の歩み展」のために制作した三枚組の「大地の歌」が、市立美術館の壁面 の高さや光線の具合までも計算に入れて描かれたことを見ても、彼がいかに「調和」を重視していた画家であったかが、わかる。
 コーデュロイのジャケットを愛し、好みの花はポピーやアネモネ。お気に入りの胸器などは手ざわりを大事にして使い込む。それは理屈ではなく、体から自然ににじみ出てくる触覚的な感性といえた。そして、年とともに、し好が西洋的なものから東洋的なものに変わってくるにつれて、父の血を感じることが多くなった。

| 鳥の歌の響き | 22:07 | comments(0) | - |

「コラージュ」 深くて渋みのある表現




 「黙して語らず」 - まるでそれが美学のように、光一郎は口数が少なかった。作品自体も、まるで彼の分身のように押しつけがましいところがない。周囲の多弁で大声あふれる作品をよそに、いつも独りシンと座って独自のハーモニーを響かせている。それが不思議な存在感となって、見る側に静かに語りかけてくるのだった。
 「ほら、こうして和紙の裏から彩色して表側にすると、何とも味のある色が出るんだよ」。アトリエを訪れたときのことだ。彼はまるで、手品のタネ明かしをするように、制作の手順や独特の風合いの出し方を教えてくれた。風化したものを想像させる、深くて渋みのあるマチエール。それは光一郎がめざした表現の、一つの到達点といえた。
 田口安男(65)は彼を「他の作家の影響を受けて変貌するというより、その刺激をダシに自らの感性をあふれさせてくる画家」と書いている。事実、和紙コラージュはポール堀内(山梨県出身でアメリカ在住)との出会いがきっかけだった。美術雑誌に紹介されていた制作ぶりに興味を持つた彼は、帰国前日にポールを訪ね、コラージュ技法と、新しい水彩 系絵の具・カゼインカラーの存在を教えてもらう。さらに文通 を交わして、新たな表現方法の探究へと突き進んでいった。
 決してピカピカ光らず、洗いざらしのような落ち着きを醸し出す、和紙とカゼインカラー。その微妙な肌合いが体質に合った。試行錯誤を繰り返していくうちに、和紙を張る面積が増え、ついにはキャンバス全面を和紙が覆うことになる。しかも、「和紙で描く」のではなく、「和紙に描く」という、彼独自の世界が確立されていった。
 昭和52年、光一郎のコラージュは大きな変化を見せる。それまで日本的空間性を追求していたのが、自身の内面 をキャンバスの中に塗り込めるようになったのだ。黒地に自由自在の線描が躍動し、まるで音楽が聴こてくるような世界。「宇宙の響」シリーズの誕生だった。
 そのイメージは福島高専の教え子で宇宙物理学を研究している、柴崎徳明(49)=立教大助教授=から得た。柴崎が展開する一方的な宇宙観をジッと聴いていた彼は静かに「“自然界の中の響きを探す”ということですね」と言ったという。
 その高感度アンテナは、宇宙と自らの精神を合体させ、見事なイメージの膨らみを見せた。そして仲間たちが「新制作展の白眉だ」と絶賛したオリジナリティー豊かな作品が生まれた。光一郎はまた一つ、まゆを食い破ったのだった。

| 鳥の歌の響き | 22:08 | comments(0) | - |

「普遍性」 時代超え感じられる絵




 その絵の前に立つと、なぜか心が落ち着いた。骨太な画面 の奥底から、何かか沸き上がってくるような強さがある。それは、まるで光一郎自慢のグッドマンのスピーカーから流れる重低音の響きのようにも思えた。静かに、ゆっくりと、そして重々しく。絵が語りかけてくるのだった。
 彼は昭和60年7月、市立美術館で開かれた「半世紀の歩み若松光一郎展」のために、「大地の歌」を制作した。縦2.27、横5.06メートル。150号のキャンバス3枚で構成されている大作で、テーマは文字通 りマーラーの交響曲。荒涼とした大地や岩肌を思わせる褐色のベースの中に、さまざまな思いが散りばめられている。まさに「若松光一郎を感じることができる作品」といえた。
 「春になれば、愛する大地は再び花が咲き乱れ、木々は緑に覆われて、永遠に、世界の速き果 てまでも青々と輝きわたる」。マーラーは最終楽章で、こう歌い上げている。その、力強く雄大な世界は光一郎にとって、あこがれだった。アトリエにこもり、「大地の歌」の旋律を聴けば聴くほど、自らの人生とオーバーラップするものを感じた。そして「人間の無常を嘆き、永遠の自然を賛美する」という普遍的なテーマへとつながっていった。
 昭和21年のことだ。すべてが貧しかった。紀志子は道端の雑草の中に目のさめるような紫の花を見つけ、思わず立ち止まった。アザミだった。秋の夕暮れの、セピア色の陽の中で幻のように美しかった。彼女はそれを折ろうとしてためらった。「貧しい毎日の暮らしの中で慰められるのは自然の美しさだけだもの、私一人のものにしてはいけない」。振り返り振り返り、心を残しながら、長い影法師を落として帰っていった。
  「大地の歌」には、それぞれの人生を走馬灯のようによみがえらせ、共感を呼び起こす力があった。どこまでも輝く透き通 っている青、地球の核に通じるような漆黒。そしてアザミの群落を思わせる品のある紫…。その画面 は壮大な自然から悠久の時へと見る側を誘い、人生の軌跡まで深化させてくれる。そして光一郎の魂のようなものを感じるのだった。
 「知力とか気力といったものを超えた世界を見つけた、というべきかな。魂の凝縮度は高いですね。しかも、仕事がこもっている。大声で話していない。かなり高い到達点だと思う。」稲川敏之(64)はそう評価する。
 常に未知の部分を持ち、未来に生きようと真剣になって絵を描いてきた光一郎。その抽象絵画探究の彷徨は、「普遍性」という大きなテーマへと到達した。それは自然であり、宇宙であり、人の記憶や内面 だった。「その時代だけ評価されてもだめだ。いつの時代の人々も感じられる絵を措かなければ」。彼は、そうした思いを、和紙とカゼインカラーのコラージュという手法で絵に託した。

| 鳥の歌の響き | 22:13 | comments(0) | - |

「魂」 多様性を持った温かさ




 「鳥の歌」は2分弱の短い曲だ。しかし、その哀愁を帯びたチェロの響きはしなやかでありながら重く、一音一音が体中に染み渡る。それはパブロ・カザルスの人生そのものであり、彼が生まれ育ったカタロニア地方(スペイン)の良心といえた。
 今回の連載の原点は「死んだ時はカザルスの「鳥の歌」で送ってほしいと思っている」という光一郎の一言だった。81歳まで、自らはほとんど語らず、ただ黙々と絵を措き続けた人生。家族の手元にはばく大な量のコラージュや油絵、デッサンが残された。その1つひとつの作品に託した思いは何だったのか。彼にとって「鳥の歌」はどういう意味があったのか−それが知りたいと思った。
 夜の11時半を過ぎていたと思う。かつて市立美術館に勤務し、「半世紀の歩み展」の時に光一郎の作品を解析した小泉晋弥(42)に電話した。彼は郡山市立美術館を辞め、4月から茨城大の助教授になっていた。同い年の気安さからだろうか。常に新鮮きと深さを追い求めた若松光一郎という敬愛する画家を共通 項に、お互いの生き方についてまでも話が及び、水戸までの電話は長時間になった。
 「彼の絵の思想性って何だろう」。この質問に対して小泉は、こう答えた。「絵の前に立った時に、見る側が感じられるものを出す。それは言葉ではない。何て言ったらいいのかなあ。頭ではなくて肌で感じられる、というか。絵の一部になれるんだよね。写 真ではダメなんだ。本物じゃないと」。それこそが光一郎の響きだった。その板底には、それぞれの人生と共鳴し合える多様性を持った、彼の温かい魂があった。
 昭和46年、94歳のカザルスは国連でコンサートを行い、「鳥の歌」を弾いた。そして、こう言った。「カタロニアの短い民謡を1曲弾きます。この曲は「鳥の歌」と呼ばれています。鳥たちは宇宙の空高く飛んでピース!ピース!(平和)と鳴きます。美しい曲です。私の祖国カタロニアの魂なのです」
 光一郎の絵を見て、人はさまざまなことを感じる。「遠い昔に砂浜に措いた落書きを思い出し、少年の日に戻ったような気がした」「まるで大地をひっぱがして人々の喜びや苦しみを刻印したようだ」「オーボエやピッコロやフルートが躍動している」…。彼はそうした批評を、いつもニコニコしながら開いていた。
 色と線を使って視覚に訴える絵画。それを言葉や文章に置き換えて理解しょうとすること自体無理なのかもしれない。理屈じゃないんだよ」。彼の静かな声が響いた。

| 鳥の歌の響き | 22:14 | comments(0) | - |

「その死」 自由人であり続ける




 「さはこの湯」のほぼ真向かいに、浄土宗旧名越派の「惣善寺」がある。通称「下の寺」。その奥まっている高台に光一郎の墓があった。周りは竹林で覆われており、シンと静まり返っている。そうした中で、彫刻家小田襄が制作した黒御影の墓石が異彩を放っていた。
 光一郎の入院は昨年の9月27日。突然だった。呼吸が苦しそうな夫を見かねて紀志子が病院に行かせた。レントゲンを撮ってみると、片肺がまったく機能していない状態で、即入院。猛暑と大作の制作が彼を弱らせていた。若い時に被爆し、肺結核をも患った肉体には、もはや抵抗力がなかった。
 近くに住む鈴木邦夫(63)は旧城跡の坂で、登っては休み、休んでは登る彼の姿を何回か見ている。ちょっとした距離でも車に乗せると、「いやぁ、助かったよ。ありがとう」と礼を言った。長いつき合いだった。一緒にスケッチ施行もした。しかし、余計なことは決して言わなかった。黙々と自分のベースを守り、絵をほめることも、けなすこともしない。邦夫にしてみれば、言葉を発しないことが怖かった。
 光一郎は、11月7日午前6時、燃え尽きるように息を引き取つた。前夜は8時ぐらいまでテレビを見て、朝起きてから水をほしがった。ゆっくりと水を飲んだあと、付き添いの女性が亡くなっていることに気ついた。眠るような大往生だった。
 「あれだけ純粋に生きられれば幸せだと思う。穏やかでいい人だつたから、最後も苦しまないで往生できたんでしょうね」。紀志子が、ちょっとしめっぽく言った。浮世のことにはほとんど関心を示さず「面 倒だなあ」「イヤだなあ」と言って、なるべくかかわろうとしなかった光一郎。しかし、絵と音楽の話になると途端に目が輝いた。権威や金にしばられ、屈服することを徹底して嫌い、あくまで自由人であり続けた。何よりも絵を描き続けることを最優先した真の芸術家であり、画家といえた。
 享年81歳。さずけられた戒名は「彩雅院仁誉美阿光徳清居士」。旧制中時代からのライバルで、敬愛してやまなかった鈴木新夫の展覧会が、市立美術館で開幕する四日前の死だった。
 若松家の墓石は、ゆるやかな曲線が特徴だ。制作者の小田は「曲線は大地にかえる永遠のテーマ」と位 置づけ、生と死が向かい合っているイメージにした。「輪廻の世界を表現したかった」のだという。見事なまでの情熱と集中力で作品を生んできた光一郎は、試行錯誤の未に自然をめざすようになった。その象徴ともいえる墓の下で、永遠の眠りについている。

| 鳥の歌の響き | 22:16 | comments(0) | - |

「未完の絵」 ライバルを待ち続け…




 高杉和久(47)には、忘れられない思い出がある。夏の暑い日のことだ。新制作協会展に出品する大作5点を光一郎に見てもらうため、小名浜のアトリエで緊張して待っていた。入ってきた彼は、絵をチラッと見たかと思うと、コンクリートの床をジツと見つめ、「きれいだねぇ」とつぶやいた。粗い床面 にさまざまな色の油絵の具がしたたり落ち、何ともいえない模様を浮かび上がらせていた。高杉はその年、落選した。
 こんなこともあった。スポーツウェアを着てテニスへ行こうとした高杉を呼び止めた。そして真剣な顔をして、こう言った。「テニスをやめなさい」。光一郎にとって高杉は特別 な存在だったのだろう。「いわきに根を張って本物の領域まで突き抜けてほしい。それにはガムシヤラになって絵と向き合わなければならないんだ」。そんな思いが珍しく態度や言葉になって出たのだった。
 「とにかく絵をどんどん見なさい。そして大作を描けるだけ描き続けなさい。若いうちは冒険しなさい」。それが彼の教えだった。理屈じゃない。感性を磨いて体に染み込ませるんだ。そうすれば、どこが良くてどこが悪いかがわかる―。その信念は、良質の展覧会開催や美術館建設へと発展していった。
 光一郎が亡くなったあと、アトリエには黄色に地塗りされた150号のキャンバスニ枚とコラージユの素材が置かれてあった。それは「大地の歌」と対の3枚組にする予定だったが、真ん中の作品だけが完成(新制作展に出品)し、残りは未完のままになつてしまつた。高杉は紀志子の許しを得て、それを自分のアトリエに運んだ。
 光一郎は、いわきで制作を続けながら「絵かきとはどういうものか」ということを、身を持って示した。そして自分の刺激になる、世代を超えたライバルが、1日でも早く出てくることを楽しみにしていた。しかし、あえて困難な山登りをして自らを極めようとする人材は、現れなかった。ほとんどの人が「ここはいわきなんですよ。東京じゃないんです」と妥協し、上を見ようとしなかった。それが何より寂しく、悲しかった。
 高杉は光一郎のアトリエに入るたびに、その精神の高きと豊かさをひしひしと感じる、という。彼が常日ごろ何を言おうとしていたのか…。その言葉にならない言葉を思うたびに、後悔が全身を包んだ。「もう一度初心に戻ってチャレンジしなくは」。高杉にとって、それが一番の恩返しといえた。

| 鳥の歌の響き | 22:17 | comments(0) | - |

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